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「心が叫びたがってるんだ。」 感想

この記事は

「心が叫びたがってるんだ。」の感想記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。

はじめに

「心が叫びたがってるんだ。」を鑑賞してきました。
以下、ネタバレありの感想です。
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「とらドラ!」から脈々と流れる共通項

「とらドラ!」を原典とした流れの中にある作品。
それが僕の率直な感想です。

長井龍雪、岡田磨里、田中将賀。(敬称略)
僕がアニメで最も重要な役割と考える監督(演出)、脚本(シリーズ構成含む)、キャラクターデザイン(キャラ原案含む)、音楽の4本柱の3役を同じくするアニメといえば、真っ先に思い浮かべるのは、当然「あの花」になります。
わざわざ原作表記を同一のものとし、それを前面に押し出したプロモーション展開をされていますしね。
それを踏まえ、本編鑑賞後。
「あの花」よりも先に「とらドラ!」を連想してしまいました。

ストーリーが似てるとか、作風が近い訳では無い。
しかし、ただ1点に置いては同じ空気が流れていたなと。
まさに心が叫びたがっている点が。


「とらドラ!」は萌えアニメに分類されているのでしょうか?
実際調べるとそのように区分けしてるメディアや記事に多数触れる事が出来ます。
つい数年前にDVDでいっき見するまでの僕がまさにそう。
原作イラストのヤス先生の画風から受けるイメージから、萌えアニメの1つとして捉えていました。

だから余計に衝撃だったんです。

萌えアニメと言えば、「どこまでも美少女を可愛く見せる」ことに腐心されています。
その一挙手一同、全てに至るまで「可愛く見せる」フィルターを何重にも掛けて作られている。
中でも特徴と呼べそうなのが「人間の醜い部分を描かない」点。
仮に描いていても、上記のフィルターを余計に掛けて、可愛く見せています。

例えば嫉妬。
綺麗な側面とは言えない感情の1つであり、人間は誰しもが多かれ少なかれ抱えているもの。
恋愛ものですと、ライバルが恋敵である主人公に嫉妬して、嫌がらせ(時には本当に悪質なものも描かれる)をするというのは王道パターン。
そんなライバルの姿には萌えとは程遠い感情が芽生えます。

そのような行為を萌えアニメで扱うとどうなるか。
嫌がらせとは言えないような些細な(些細過ぎる)事を仕掛けようとし、特にフィルターが多い作品になると、嫌がらせが失敗して逆に相手を喜ばせちゃうような。
若しくは、自分自身が罠に嵌ってドジっ子ぷりをアピールするような。
嫉妬の炎を燃やすキャラも、また、そのターゲットも、誰も傷つけないように描かれる事が多いです。

だけど「とらドラ!」はどうでしょう。
嫉妬、怒り、嫌悪、恨み…。
恋愛に友情に揺れる感情を、表も裏も包み隠さず吐露するキャラクター達。
大河達は、自分の醜い感情をも曝け出し、叫び続けていました。

圧倒されたんです。
画面からとんでもない熱量が迸り、パワーに気圧されてしまいました。
どこが萌えアニメなんだと。
とんでもないエネルギーを爆発させた人間ドラマじゃないかと。

原作はまだ1巻しか読んでないので間違っているかもですが、このようなキャラ描写は全て原作者である竹宮先生の筆致であるでしょうから、これを「ここさけ」の原典と呼ぶには語弊があります。
しかし、それを誤魔化すことなく、フィルターに通す訳でも無く、寧ろ剥き出しにしたままアニメ化した長井監督の作風の1つと呼んでも差支えないと思うのです。

この1点が確かな共通項。
「とらドラ!」に始まり(遡れば、更に前の作品があるかもですが、僕が知る最初はココなので…)、「あの花」でも確かに存在していた。
最終回での大暴露シーン、そしてクライマックスのめんまへの想いの吐露。
ぐわっとした心からの叫びに琴線を震わされまくりました。

「心が叫びたがってるんだ。」は、まさしくこの共通項を更に前面に押し出したような作品。
チーム長井の真骨頂。

ヒロインの美少女が想い人に対して「時々脇が臭いんだよ」とか普通言いませんよ。
個人的には最もインパクトを受けた部分。
メインも脇も「言いたい事を言いまくった」アニメ。

そんな言葉の嵐に傷つけ、傷つきあい。
「取ってつけた様なハッピーエンド」はそこにはなく、最後までほんの微かな苦みを含んだ青春劇。
このチームの「らしさ」を感じる事が出来ました。

玉子の妖精に騙される

それにしても、騙された〜。
「あの花」をこうも推されていたので、なんの疑問も無く「玉子の妖精」というファンタジー要素を受け入れていましたよ。

ちょっぴりのファンタジーを加えたリアル青春群像劇。
と思って鑑賞したので、まんまと騙されてしまいました。

いやいや、スタッフの誰も騙す気なんてさらさら無いとは思うんですけれどね。
まさか玉子の妖精が「順の生み出した架空の存在」だったとは。
これを知った上で見直すと、また違って見えるんでしょうね。

より「順の苦しみ」が伝わってくるんじゃないかな。
勘違いしちゃいけないのは、玉子の妖精の存在を拓実に指摘されるまで順は「本気で信じていた」ということ。
決して「自分が生み出した幻を実在すると無理矢理思い込んで、芝居じみた言動を取っていた」訳では無い。

順自身本気の本気で、玉子の存在を信じていて、呪いを掛けられていたと想っていた。
それだけ深い深い傷を心に負ってしまっていたんだと。

ぶっちゃけ、順のオヤジが最低過ぎなんですよね。
離婚の全責任を娘に押し付けて「全部お前のせいじゃないか」とか、どの口がぬかすのか。
母として、そんな娘の悲しみに背を向けていた・気づこうともしなかった母親も大概ですが。

深い傷に塩を塗り込むような人間しか順の周りにいなかった。
拓実に出会うまで何年も何年も。

順の苦しみの深さへの理解は、玉子が実在してたかどうかで大きく変わってきます。
「外部的要因(玉子の呪い)のせいで喋れない」のではなく「大きなトラウマがあって、喋る事を禁じた」のですから。
腹痛だって、呪いなんかじゃなく、精神的なモノだったんでしょうから。
精神に異常を来たす程の苦しみって相当ですよ。
傷の大きさを理解すればするほど、クライマックスの感動も大きくなりますね。

何故内山さんの兼役だったのか?

さて。
エンドクレジット中、「そうだったのか」となったのが玉子の担当声優さんを見た時。
拓実と同じ内山昂輝さんが演じてらしたのですね。

面白いなと思いました。

何故兼役だったのか考えてみたんです。
本筋とは外れますので理由について詳しくは省略しますが、「製作費を抑える為の配役」では無いと考えます。
そうじゃないだろうなと。
何らかの意図があっての兼役だったんじゃなかろうか。
そこまで考えて、こういう結論に至りました。

「言葉の持つ二面性を演出しているのではないか」
と。

拓実は順の前に現れた王子様です。
言葉の"せい"で他人を傷つけ、傷つけられた順を救った存在。
順の言葉の"おかげ"で、救われた少年でもあります。

対して玉子の妖精は、言葉の"せい"で傷ついた順の心が生み出した幻の存在。
他人の言葉によって傷つく度に現れるので、ある意味では順の心を守っているのですが、言葉の負の面の象徴として描かれていました。

見事なまでに対極に立ってるんですよね。
一方は、順の言葉のお陰だと言い、一方では、順の言葉のせいだと言う。

言葉というのは、確かに他人を傷つけることもあります。
けれど、他人を救うことも沢山あります。

玉子と王子。
点の有無だけで変化するように、言葉も受け取り方・話し方次第で良くも悪くも変化する。

「言葉の良い面と悪い面は表裏一体である」ことを「玉子」と「王子」の近い漢字で表現。
同時に声優を同じくする事で、この面を強調していたという解釈。

ややメタ的視点を含む解釈ですけれど、敢えての内山さんだったのではないかな。

終わりに

ミュージカルシーンは、でっかいスクリーンかつクリアな大音響で見ると、感動しますね。
凄かったな〜。
CDとかBDではなかなか出来ない体験。
映画館に足を運んで改めて良かったなと思えたシーンでありました。