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何故「史上最強の弟子ケンイチ」の兼一には格闘センスが皆無なのかバトル漫画の修行の必要性から考察

この記事は

「史上最強の弟子ケンイチ」を軸とした記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。

はじめに

以前コメント頂いたので少しずつ「史上最強の弟子ケンイチ」を読み進めています。
今ようやくラグナレク編を経てDオブD編に突入した位です。
面白いですね。
そんで最近のバトル漫画とは異なり、積極的に修行シーンを盛り込んでいる。
寧ろそこを核としているとさえ見える構成で、異色を放っている感じです。

近年のバトル漫画に修行シーンが少ないのは、その回の人気が取り辛いからというのを聞いたことがあります。
この辺の真偽は不明ですが、最近のバトル漫画には確かに修行シーンって少ない。

そんな中にあって「ケンイチ」は修行修行修行…。
は大袈裟かな。
まあ、でも多いですよね。

更にケンイチ自身も特異な主人公。
格闘技の才能が無いって普通じゃないです。
何故ケンイチには格闘技の才能が無いのでしょうか?

今回はこの疑問について考えてみました。

修行シーンの必要性

主題に入る前に少し脱線して、修行シーンの必要性に言及してみます。
バトル漫画と大括りしてるジャンルを細かく分類して見ると分かりやすいと思います。

一般的にバトル漫画と呼ばれているものの細分化。
2分類に分けてみましょう。

非現実的な要素を多く孕んでいるものをここでは「非現実的バトル漫画」と呼ばせて頂き、これを1つ目とします。
この「非現実的バトル漫画」以外のものを全て2つ目「現実的バトル漫画」とします。

非現実的バトル漫画

「DRAGON BALL」でも良いし「NARUTO」や「BLEACH」。
「FAIRY TAIL」や「YAIBA」でも良い。
この枠に含まれる作品群を更に「主人公の戦法」を基準に2つに分けてみます。

1つは肉弾戦主体のバトル漫画。
「非現実的・肉弾戦バトル漫画」とでもしておきます。
代表作は「DRAGON BALL」等。
己の肉体を鍛え上げて敵をやっつけるタイプ。
このタイプでは、修行って必要だと考えます。
肉体を鍛えて強くなるわけですから、その過程をすっとばすと説得力が失われます。

「DB」は読者に飽きさせずに修行シーンを描くのが巧みな作品でした。
精神と時の部屋とか凄く合理的な設定ですよね。
最低限の描写で、何倍ものパワーアップを果たせるというのは「修行シーンに尺を使わず、かつ、説得力を持たせる工夫」が一杯の設定です。

個人的には亀仙人の修行もユニークで好きなんですよね。
読んでいて楽しい。
日常を送りつつも強くなっていく過程を描いていましたが、その日常があまりにハードすぎて「ああ、そりゃ強くなるよね」と子供心に思ったものでした。

とまあ、こういったタイプは重要度が高い。

もう1つは能力バトル漫画。
「非現実的・能力バトル漫画」。
自分の肉体を武器とするよりかは魔法や忍術、特殊な武器に頼った戦いを主としているタイプです。
「NARUTO」や「BLEACH」、「FAIRY TAIL」に「YAIBA」。
他にも一杯ありますが、これらのタイプの代表例。

これらは必ずしも修行シーンを必要としない作品達かと考えます。
ケースバイケースで必要な時にだけ必要な量だけ入っていれば十分かな〜と。
新しい能力の会得時に「どうやって習得するか」だけ見せれば良い。
極論を言えば「ONE PIECE」みたいに意図的にオミットしても問題無い訳です。
ルフィが初めてギア2を披露した際は、「いつ習得したんだ〜!!!!!」と誌面に向かってツッコんだ事もありますwww
2年間の修行を丸々カットしてたり、兎も角修行シーンを見せない「OP」ですが、僕は納得してます。

理由としては、僕の想像力の限界というのかな。
肉体を鍛えて強くなるというのは、実体験やらなんやらで理解出来るんです。
自分達の身体の事ですからね。
ただ、能力の向上・不可思議な技の習得となると、理解が難しい。
描かれている事を鵜呑みにして「そうなんだ」と納得する以外に無い。

納得と理解は異なります。
物事の本質を分かる事が理解であり、理解した上で同意する行為を納得というから。

肉体を鍛える修行は理解した上で納得する。
能力向上・会得の修行は理解をすっとばして納得する。
あくまで僕個人の感覚的な事なのですが、このような理由から能力モノに修行シーンは必ずしもなくても良いと考えているのです。

纏めますと、「非現実的・肉弾戦バトル漫画」は修行シーンは最低限必要であり、「非現実的・能力バトル漫画」は修行シーンの重要度は低い。
こんな見解。

現実的バトル漫画

格闘漫画や不良(喧嘩)漫画等が主に属するグループ。
こちらも「現実的・格闘技漫画」と「現実的・不良漫画」に分類してみます。

「現実的・不良漫画」は、リアリティ溢れるキャラ達の喧嘩を主な題材としています。
(メインキャラが不良では無くとも、喧嘩を題材としてたらココに含めます)
ここに修行シーンの入る余地はあまりありません。
喧嘩に勝つ為だけに修行に明け暮れるって不良、見たこと無いですよねw
どんだけ喧嘩に勝ちたいんだとビックリします。
もっと現実的に人数を集めるか、武器を持って挑む事でしょう。
その方が修行するよりかはよっぽど作品に説得力を持たせられます。
(主人公が数的有利で勝つ不良漫画なんてちょっと嫌ですので、実際には「特訓」程度はあって然るべきな気もしますが)

「現実的・格闘技漫画」に話を移します。
ボクシングなどに代表されるような格闘技を扱ったこれらの漫画は修行(練習)シーンは必須ですよね。
「はじめの一歩」なんて分かり易いです。
練習での新ブロー習得と試合が交互に来ていて、ボクサーとして強くなる過程とその成果をスパイラルの如く見せていく構成になってます。
相手も勝つために必死に体を鍛え、技を磨くのが常な格闘技という世界に於いて、修行シーンを省く事はあってはなりません。

「一歩」の修行シーンには、謎解きの要素(というと大袈裟かもですが)が含まれているので、飽きないんですよね。
先ずは相手を知る事から始まる。
どんなボクサーで、必殺ブローは何で、得手不得手はどんなところなのかを研究します。
その上で「ではどうすれば勝てるのか」を考え、出した答えに則った練習法を開発・敢行していく。
ただ闇雲に練習風景を描くのでは無くて、「相手ボクサーを攻略する手法」を模索してから、それに沿った練習を見せているので、相手によって毎回内容が大きく異なるんです。
この積み重ねで一歩の成長が分かり易くなっているし、毎回バラエティに富んだ練習内容なので読んでいて飽きない。
かつ、「どうやって倒すのか」という謎解き要素まで含まれているので、結果(試合)も気になってくる。


「現実的・不良漫画」に修行は必要ないけれど(勿論あっても何の問題も無いです)、「現実的・格闘技漫画」にとっては重要な要素である。

「史上最強の弟子ケンイチ」の場合

じゃあ、「ケンイチ」ってどんなタイプのバトル漫画なんでしょう。

しぐれを筆頭に武器を使った格闘技術に長けた者も多数出てきますが、基本は主人公であるケンイチの戦い方から判断してみます。
最初に排除できるのは「非現実的バトル漫画」。
師匠達の強さは現実を遥かに凌駕してますけれど、そこは漫画的表現という事で無視します。
強さは半端無いけれど、あくまでも現実に則った格闘技をメインとしているので、「現実的バトル漫画」に属する。

「現実的バトル漫画」の中ではどちらのグループなのかといえば、ちょっと判断が難しい。
ラグナレク編は喧嘩と呼んでも差支えない為、「現実的・不良漫画」なのか。
少なくともスポーツとしての格闘技という訳では決してなかったですからね。

ただ、ケンイチは様々な格闘技を習って、それを活かして戦っている。
だから「現実的・格闘技漫画」なのか?

どっちともとれそうだから、いっそのこと「現実的・修行バトル漫画」を名乗っても良い気がするんです。
「ケンイチ」の場合は。
修行シーンを最重要に置いた特異な漫画群の代表作。
あの漫画は読めば読むほど、修行を描く事だけを主眼にしてるような気がしてくるんですよね。

だって、主人公のケンイチの設定が有り得ないじゃないですか。
普通はどんなに努力型の主人公でも、何らかの才能を持っているものですよ。
一歩なんかそうですよね。
いじめられっ子がボクシングに出会って、活躍するうちにいじめられなくなっていく。
男の子なら誰もが憧れるようなサクセスストーリーで、「ああ、どこにでもいるいじめられっ子でも、頑張れば強くなれるんだ」と大きな夢をも与えてくれます。
が。そんな訳無い。
一歩は釣り漁船の仕事で培った強靭な足腰という"才能"を持っていて、これが彼のパンチ力の由縁でした。
"誰にでも"という訳では無い。
普通の人が中々持ってない様な何らかの才能がやっぱり主人公にはあるんです。

バトル漫画に於いて、全くの無才能っていうのは非常に稀なケース。
だと思うんですが、ケンイチがこれに当たります。
武術の才能が欠片も無いと言われ、これは嘘でも何でも無く本当でしたw
もう常人なら耐えられない地獄のような特訓を経て、皆無な才能を努力で補っている。

普通だったら「強さの説得力」に転嫁すべく、主人公には何らかの才能が付加されるのに、ケンイチにはそれが無い。

ケンイチよりも圧倒的に強い師匠達を戦いに参加させない工夫も巧みですよね。
実に自然に「弟子同士で戦う必然性」を用意し、師匠達は「弟子の喧嘩には手を出さない」という不文律を守らせる事で、戦いからは遠ざけている。

なんとなくですが、松江名俊先生始め多くの人が一度は思い描いた事がある夢をケンイチに乗せて描いている気がしてなりません。

「複数の格闘技を全て達人クラスまで極めたら、人はどれだけ強くなれるのか」

所謂「総合格闘技」の更なる発展系というのかな。
それぞれの道を頂点まで極めて、かつ、それらの技をミックスして1つの格闘技術に練り上げると…。
うん。
そんな事が出来たら、「史上最強」と呼んで問題無い人間が出来そうです。
ただ、それを見せるには膨大な時間が必要な気もします。

普通は出来ないような事を漫画とはいえ、1人の人間にやらせるんですから。

普通では無い過酷な修行を延々とさせる。
延々と修行させる為に「修行時間をショートカットできる要素」を廃しているのかもしれません。
ケンイチに才能が一切無いのはその為なのかなと。

普通は修行シーンを最小限で済ませる為に才能を付加さえたり、能力を与えたりします。
「ケンイチ」は全く逆。
修行シーンをずっと描き続ける事に説得力を持たせる為に、「成長しにくい主人公」にしている。
戦いはどこまでも「修行の成果を見せる場」でしかないのかもしれません。

まるで拷問にしか見えない修行の数々。
ケンイチのリアクションもあってギャグシーンに見えるよう加工され読み易くなってます。
修行が何よりも重要だからこそ、ここを楽しく読めるようになってるのかなと。

まとめ

ケンイチって誰よりも僕らに近い存在です。
格闘センスゼロで、いじめられてたりするくらいダメな子。
イジメ云々は除いて考えても、「現実のどこにでもいそうな少年」。

そんな少年が強く・逞しくなる過程を描いたサクセスストーリーは、「努力すれば誰だって大成できる」可能性を示唆出来ている。
(実際努力だけで大成できるかと問われると黙るしかないですがw)

こういった少年漫画要素を持たせつつ、「強くなる過程に現実味と説得力」を持たせてもいる。
そして「現実にある格闘技を複数極めたら、最強の格闘家になるんではないか」という夢をも描こうとされている(ように感じる)。

この夢を漫画で表現するのって、正直簡単です。
格闘センス抜群の主人公を出せばいいのだから。
でもそれだと読んでいてつまらない。
難なく修行を熟し、みるみる成長する主人公。
必然多くなる修行シーンも読んでいて面白くないと思う。

それよりも、修行が全く身に付かず、もがき苦しんで逃げ出している様を見ている方が断然楽しいです。
って書くと、滅茶苦茶性格悪いですね(汗
いや、こういったドタバタコメディ要素で処理されていた方が絶対楽しいですよね。

先程の最強の格闘家像は夢物語ですよね。
普通に練習してたら出来ないし、それこそ地獄のような質と量の特訓が必要。
時間が必要となる。

ドタバタコメディを可能としつつ、長時間の修行描写に説得力を持たせるには、主人公のセンスをゼロにしちゃえばいいという逆転の発想(笑


「ケンイチ」って特異な漫画です。
修行シーンを短く出来ない様に、ケンイチに成長しにくい要素を持たせているように思えるからw
いつだったか修行の恐怖を骨の髄まで刷り込まれているケンイチを見た長老が
「ごめんね、ケンチャン」
ってモノローグで叫んでいるシーンで爆笑したんですが…。
ケンちゃん、仕方ないんだよと今では思えます。

空手、柔術、中国拳法、ムエタイ、武器の知識
プラス長老の我流で培った格闘技術

全てを極めるには、死ぬほどの修行を死ぬまでやらないと、命がいくつあっても足らないんですから…。
師匠達の教えをモノにした時、「史上最強の弟子」が出来て。
と同時に真の総合格闘家という1つの答えにもなるんじゃないかな。