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「ドラえもん」 TVジャイアンと映画ジャイアン、彼の本性はどちらなのか考察

この記事は

興味深い記事を拝読したので、そこから発想したものになります。
ジャイアンはいじめっこなのか否か。

こんな記事を読んだ。


ソース元が消えることも考慮して、全文を引用します。

なぜジャイアンはのび太をいじめ続ける? 強者の心の底に潜む恐怖


■ジャイアンがのび太をいじめ続ける謎
気がつけば30年以上も、アニメ『ドラえもん』を観ている私。
今も昔も、のび太がジャイアンやスネ夫にいじめられ、ドラえもんのポケット頼みで、ヤツらの鼻を明かすのがこのアニメの定番の構造。
何十年にもわたって同じようなストーリーが展開され、子どもたちの共感を誘っていることに、驚きを感じています。


こうしたいじめの構造は、大人の世界でもしばしば見られるものです。
夫から妻へのDV、上司から部下へのパワハラ、ボスママからのチクッとした(とはいえ残酷な)ママ友いじめなど、強い者が弱い立場の者をいじめる光景は、あらゆる環境で生じています。


■いじめっ子の心に潜む「いじめへの恐怖」
なぜ、強い者は弱い者をいじめるのでしょう?
理由の一つに、強そうに見える彼らも、実は「いじめへの恐怖」にさらされた弱者であるという事情があるように思います。


子ども界では敵なしのジャイアンも、家に帰れば母に大根を振りまわして追い回され、父にゲンコツで殴られる子羊のような弱者です。


DV夫、パワハラ上司、ボスママたちも同様です。
両親には絶対服従の家庭で育ち、学校ではコーチや先輩にしごかれ、職場では上司に怒鳴られる――弱い者をいじめる人は、こんな弱肉強食の過酷な環境の中で、「絶対権力への服従」「いじめへの恐怖」に怯えながら生きてきた人が少なくありません。


■いじめる自分に内在する「弱い自分」
そうした過酷な環境の中で生きていると、「弱さ」を忌むべきもの、矯正すべきものだと感じてしまいます。
そのため、目の前にのび太のような弱々しい子がいるだけで、その弱さをあざ笑い、「あいつの根性を叩き直してやる!」と思わずにいられなくなるのでしょう。


また、弱い者の姿に「自分の弱さ」を投影してしまうという無意識の作用も関係していると思われます。
親や指導者に怒鳴られてビクビクしている自分、殴られないかとオドオドしている自分――目の前に現れた弱い者の姿に、権力者の前で同じように怯えている自分の姿を想像してしまい、「俺はこんなに弱くない!」「こんなにビクビクしてちゃダメなんだ!」と激情と苛立ちが湧き上がり、無意識にいじめてしまうのだと思います。


こうした人の多くは、「強者が弱者をいじめる快感」を目の当たりにしてきた人たちです。
機嫌が悪いから殴る、ムシャクシャしているから怒鳴る……、そんな強者の自己中心的な行動に弱者が怯えれば、「俺は強い」と実感でき、優越感に浸ることができる。
このような「強者の快感」を目の当たりにし、快感の餌食にされてきた人は、「自分もいつかは同じ立場に立ってやる!」というゆがんだ意欲を強くしてしまうものです。


■暴力を後悔できるのび太のバランス感覚
一方、のび太のように年長者からいじめられることなく、安心、安全な環境で育っていれば、積極的に人をいじめようとは思いません。


のび太は、小学高学年になった今でこそ「また0点取ったの!」「そんなことでどうするの!」と、お母さんからガミガミ怒られています。
とはいえ、この母には問答無用で息子を殴るようなところはなく、基本的には穏やかな態度で息子に接しています。
お父さんもしかりです。
さらに、のび太はもっと幼い頃には温かいおばあちゃんに守られ、「のびちゃんのままでいいんだよ」と肯定されて育ってきました。
したがって、のび太は基本的にとても健康的な人格の持ち主なのだと思います。


ジャイアンやスネ夫からひどいいじめを受けたときには、「ころばし屋」「のろいのカメラ」のような暴力的な道具を使ってしまうこともありますが、その後には必ずのび太自身にも災難が降りかかり、「ああ、やるんじゃなかった」と深く後悔しています。
このいじめに対する罪悪感を感じられることこそ、「いじめない子」の持つまっとうなバランス感覚なのです。


■いじめる人の心に潜む「ゆがんだ価値観」
一方、誰かをいじめたい欲求を持ち、いじめるたびに快感に浸ってしまうのは、このバランス感覚を健全に育てられなかったため、あるいは、いじめが常態化する過酷な環境にあまりにも長い期間さらされてきたことで、不健全な人間関係のあり方を学習してしまったためでしょう。


したがって、いじめが起きたときには、いじめる側の人の行動と心理にじっくり目を向けてみる必要があります。
その心の底には、絶対権力者から受けた「いじめへの恐怖」があり、その恐怖の中で築かれた「ゆがんだ価値観」が潜んでいるものと思います。
(文:大美賀 直子)

筆者の大美賀さんの経歴を載せておきましょう。

メンタルヘルスの分野を中心に執筆するカウンセラー、ライター。
精神保健福祉士、産業カウンセラー、キャリアコンサルタントの資格を持つ。
現代人を悩ませるストレスに関する基礎知識と対処法を解説。

メンタルヘルスという観点からジャイアンというキャラクターを分析すると「弱さ」を忌むべきもの、矯正すべきものだと感じてしまうからだそうです。
ただこれはTVシリーズのジャイアンの分析です。

同様の解析を素人の僕が出来る訳もありませんが、では、映画版のジャイアンはどうなのか考えてみます。

映画のジャイアン

ともすると、TV版と区別されることの多い映画版のジャイアンは、のび太を積極的にフォローし、敵から助ける「心の友」として描かれています。
このジャイアンがよく口にする「心の友」という言葉について考えてみます。
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大雑把に捉えれば、「親友」に近いニュアンスの言葉なのでしょうけれど、もう少し心理的にアプローチしてみます。


映画では常にドラえもん達を脅かす強大な敵キャラが出現します。
人外の魔王であったり、未来人であったり。
いくら体の大きなガキ大将とはいえ、子供のジャイアンの敵うような相手ではありません。

上で言う所の

子ども界では敵なしのジャイアンも、家に帰れば母に大根を振りまわして追い回され、父にゲンコツで殴られる子羊のような弱者

という構図が、映画に於いても当て嵌まる訳です。

しかしTVシリーズと大きく異なるのは、「弱者」が「ジャイアン1人ではない」ということです。
「弱者」には、ジャイアンは勿論、ドラえもん、スネ夫、しずかに、当然のび太も含まれている訳ですよ。
ジャイアンとのび太は「命の危機に晒された」同じカテゴリーに入れられる弱者なのです。

そんな同じ立場にいるはずののび太の勇気にジャイアンは助けられることがあります。
いつも苛めている相手に助けられるのです。
同じ弱者のはずののび太に。

ここで、ジャイアンは反省するのですよ。
のび太を苛めていた自分を後悔する。
映画に於いて彼がのび太に助けられた時に涙を流しつつ言う「心の友よ~」とは「精神的に同じ立場にいる友」という解釈になるのかなと。

だからこそ、ジャイアンはのび太を対等と見做し、のび太を積極的に助けるのではないでしょうか。

本来のジャイアン

日常に於いて、家で両親にガミガミと言われ、弱者となるジャイアンは、自分よりも更に立場の弱いのび太(時にはスネ夫も)を見つけては、ストレスの捌け口としてしまうのでしょう。
これはもう彼の性格上しかたないこと。

けれど、彼も映画という非日常になると「自分と同じ弱者」ののび太に助けられることによって、深く反省しているのではないでしょうか。
いじめに対する罪悪感を感じ、反省する。
それは「心の友よ~」という言葉から読み取れる。

母ちゃんに追い回される回数と映画のような強大な相手に遭遇して恐怖を覚える回数で言えば、圧倒的に前者の方が多いのは明らかです。
だから、ジャイアンがのび太を助けることよりも苛めることの方が多いのは致し方ない。


けれども、反省してる分、

いじめる人の心に潜む「ゆがんだ価値観」

を持ったまま成長はしてません。
全うな大人として未来の姿では描かれています。


TVも映画もどちらも彼の本性であり、決して上で書かれているような「ゆがんだ価値観」を持った誰かをいじめたい欲求を持ち、いじめるたびに快感に浸ってしまうような人間では無いということ。
ガキ大将として時に苛める事もあるけれど、都度反省をし、弱者の立場に立てる心を持ったこれまた1つの健全な少年の姿なのでしょう。


尚、TVシリーズでものび太にお願いを聞いてもらったりすると「心の友よ~」と使ってますが、こういう時はもっと軽い意味なのでしょうね。



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なんだこれwww
意外とレア! ジャイアン「心の友」認定者リスト - 遠足新報
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